※本件はプライバシー保護のため、事実の一部を脚色して掲載しています。
「何か、ゾッとするような怖い話、ないですか?」
昼下がりの気だるいオフィスで、同僚の女性がコーヒーカップを片手にそんなことを言い出した。
時計の針は午後二時を回ったところ。
一番集中力が切れ、頭がぼんやりとする時間帯だ。
私はキーボードを叩く手を止め、少し考えてから「そう言えばさ……」と切り出した。
「うちの会社、少し前に不自然な懲戒解雇があったの、知ってる?」
「え、都市伝説的なやつですか?」
「ううん、本物の事件。ある男性研究員の男が、警察に捕まって一発レッドカード。
解雇理由は『住居侵入』。でもね、本当に怖いのはその中身なんだよ」
同僚が身を乗り出す。私は声を潜めて話を続けた。
「被害者も同じ会社の男性研究員。
二人は同じ独身寮の同じ階に住んでいた。
ある日、被害者の男性が、自分の部屋で見守りカメラの映像を見て気づいたらしい。自分が留守の間、見知らぬ男が部屋に入り込んでいることに」
「うわ、泥棒ですか?」
「それが違うの。その男、部屋に入ると真っ先にクローゼットを開けて、中から被害者の『下着』を取り出したんだって。
そしてね……その下着に、恍惚とした表情で、ずーっと、何度も何度も、自分の顔を擦り付けていたらしい」
同僚の顔から血の気が引いていくのがわかった。
「うわ……。それ、同じ寮の男なんですよね? 同性愛者だったってことですか?」
「警察の取り調べではそう言われてるみたいだけどね。とにかく現行犯に近い形で逮捕されて、その男は一瞬で会社をクビになった。
狭いコミュニティだから、噂は一気に広まったよ。本当に信じられない、気味の悪い話だよねって、当時みんなで噂してたんだ」
「……へえ、そんなことがあったんですね」
それまで私たちの会話を黙って聞いていた、隣のデスクの先輩・三木さんが、突然ぽつりと呟いた。
普段は物静かで、滅多に雑談に加わらない人だ。
「三木さんもその噂、知ってました?」と私が尋ねると、三木さんはゆっくりとこちらを振り向き、力なく笑った。
「その被害者、僕です!」
「ええっ!?」
私と同僚の声がハモった。
まさか、今まさに話していた怪談の当事者が、こんなに身近にいるなんて。
「いや、本当に大変だったんですよ」と三木さんは自嘲気味に言った。
「でも、警察に突き出して、あいつがクビになって、部屋からいなくなって、やっと終わったんだって安心したんです。……だけどね」
三木さんの目が、どこか遠くを見るように泳いだ。
「あの事件の後、会社にお願いして寮の部屋の鍵を新しいものに交換してもらったんです。
管理人さんにも見回りを強化してもらった。あいつはもう、この街にすらいないはず。なのに……」
三木さんは、自分のシャツの襟元を掴み、小さく震える声で続けた。
「ここ一週間くらい、仕事から帰って部屋に入ると、妙な違和感があるんです。
誰もいるはずがないのに、部屋の空気がわずかに生温かい。
それに……クローゼットを開けると、あの男がつけていたのと同じ、安っぽい香水の匂いが、かすかに漂ってくるんです」
「それ、気のせいじゃ……」と同僚が震える声で言った。
「僕もそう思いたかった。でも、昨日の夜、確信したんだ。
洗濯したばかりの下着をタンスから取り出して、顔に近づけた時……信じられないくらい、はっきりと『人間の体温』が残っていた。
あいつはクビになって、もう寮にはいない。
新しい鍵は僕しか持っていない。それなのに、僕の部屋には、今も『誰か』がいるんだ」
三木さんの顔は、完全に恐怖で引き攣っていた。
昼下がりのオフィスに、言葉にできない冷たい沈黙が広がった。
私たちはそれ以上、何も言えなくなってしまった。